「…ただいま」 低く呟いた帰宅の言葉の後、認めた見慣れない靴の存在に小さく舌打ちが出た。 兄貴が帰ってきている。 胸中に広がる不快感に、ただでさえ部活で疲弊していた体が倍以上に重く感じる。 (…………ったく、今更何しに帰ってきたんだ) 和室から聞こえてくる談笑に二度目の舌打ちをして、気づかれないようそろりと靴を脱いで畳に上がる。 とりあえずシャワーを浴びようと、鞄を下ろそうとした時だった。 「よ、若。おかえり」 ………Comparison-U てっきり和室にいると思った兄の存在に、驚きを隠せず下ろしかけたバッグをそのままに佇む。 未だ俺が帰った事に気づいた様子のない家族に安堵し、小さく挨拶の言葉を発する。 「…………ひさしぶり」 「おう。今まで部活だったのか?遅かったな」 「ああ…」 さり気なく俺からラケットバッグを受け取って、兄貴は「頑張ってんなー」と笑顔で呟く。 なんの企みも隠されていない、純粋な誉め言葉。 なぜかそれを素直に受け取る事が出来ず、顔を逸らして黙り込んだ俺に、兄貴は飄々と言葉を続ける。 「なんだお前、ちょっと見ない間に背―伸びたんじゃねーの?毎日牛乳でも飲んでんのか?」 「飲んでない。たかだか半年でそうそう変わるわけないだろ」 「そーかー?ま、半年振りだからでかく見えんのかなー」 子供の成長は早いもんなー、と、笑いながら兄貴は俺の頭を撫でる。 俺より幾分かでかい、ごつごつした広い手の平。 遠慮なく俺の頭に触れ続けるそれを、勢いよく俺は払う。 「………なんで帰ってきたんだよ」 低く険を含んだ声で問いかけた俺を、兄貴は一瞥して苦笑する。 兄貴が嫌いなわけじゃない。 ただうらやましいだけだ。 ◆ ◆ ◆ 『…ほう、日吉さんの所は2人とも息子さんなのですか。では、跡継ぎも安泰ですな』 『そうですね。まだまだ先の事ではありますが………とりあえずは、隆に、と考えてます』 幼い頃から幾度となく聞いていた、道場の行く末を案ずる言葉。 その際に必ず注がれる、俺と兄貴への品定めするような視線。 いくら幼くとも、何度も同じような会話をきけば自ずと意味は分かってくる。 兄と自分は比較され、認められているのは兄だという事だ。 成長した今だからこそ気にならない大人たちの言葉。 けれど、その頃の俺には到底聞き流す事のできる言葉ではなかった。 『 お前は、兄より劣っている 』と。 ◆ ◆ ◆ 「…テニス、どうなんだ?母さん言ってたぜ、すごく頑張ってるって」 あからさまに敵対心むきだしな俺に、兄は小さく笑いながら。話題を変える。 兄は、大人だ。 どうしても反抗してしまう俺を、兄貴はいつもいつも、こうやって苦笑で許してくれる。 「………部活、楽しいか?」 「………………」 「お前の事だから、どうせ必死で頂上とろうと思って努力してんだろ?」 「………………」 「あんま無理すんなよ?」 「………………」 「………………………ごめんな、俺がお前から古武術奪っちまって」 柔らかい口調で謝りながら、兄貴は再び俺の頭をわしゃわしゃとかきまぜる。 兄弟そろってそっくりな、色素の薄い細い髪。 やめろってば、と言うと、今から風呂だろ?と返される。 「今ならまだ湯、温かいぜ。さっさと入ってこいよ」 「………………兄貴は?」 「組み手の後すぐ入ったよ。お前が親父の相手しないから、わざわざ俺が呼び出されたんだぜ?」 たまには息抜きしろよ―そう言いながら、ぱちんと俺の額を兄貴が弾く。 並のデコピンより強いそれに、思わず顔をしかめた俺を楽しそうに兄貴は見る。 「風呂、ちゃんと暖まって来いよ?メシ食ったら和室来い」 柔らかい口調のそれに、返答をせず脱衣場への道を進む。 胸の奥につかえる、もやもやとした重いもの。 『……ごめんな、俺がお前から古武術奪っちまって』 謝ってほしいわけじゃない。 兄貴が悪いわけじゃない。 悪いのは、子供のときに覚えてしまった、劣等感を引きずってしまってる俺なのに。 「…………くそ」 テニスを始めたのは、これなら認めてもらえると思ったからだ。 古武術では、兄貴がいるから。 認めてもらえないから。 居場所がないから。 「…………情けねえ………」 吐いた低い呟きは、白い湯気に掻き消えた。 |