「指慣らしは終わってる?今日はブルグミュラー軽くおさらいしてから始めようか」
「はい」
黒鍵のエチュード
ただっぴろい防音室に、単純な、けれど滑らかな音律があふれだす。
ただの指鳴らしにしか過ぎないそれにすら、長太郎は感情を込めて弾くから聞きほれてしまいそうになる。
「……うん、ストップ。よく指動いてるね」
「ありがとうございます」
「じゃあ次、第3小節から」
「はい」
コツ、と軽い音を立てて鍵盤に触れた、長太郎の長い指。
家庭用にしては豪華すぎるこのピアノ専用室で、長太郎の指を見るのはもう3回目になる。
音大の講師直々の紹介で始めた、中学生へのピアノ講師のバイト。
初めてここに訪れた時は私に出来るだろうかという不安より、この図体でピアノを弾くのか、という強い疑問を感じたものだが。
「―ストップ、そこ。トリル、キレが足りない」
「―あ、はい!」
「あと、もう少しスタッカートも意識して。強弱もしっかりつける」
「はいッ」
接してみればなんとも可愛い、この素直な性格。
加えて、弁護士を務める上品な両親に、姉妹に挟まれただ一人の男の子、という家庭状況とくれば、ピアノをたしなんでいるというのも、納得がいくもので。
こんな風に、あたしの指導に素直に反応してくれる長太郎に愛着を覚えてからは、自分が音大のピアノ科に通っていて本当に良かったと思う。
楽譜を見つめ、白黒の鍵盤上で指を動かす長太郎の姿は、いかにも良家の子息といった感じだ。
練習開始初日、『ここが俺の部屋です』と、防音室とピアノがセットになった自室を見せられた時は、ただただその金持ちっぷりに呆然とさせられたものだが。
「………うん、OK。はい、15分休憩」
「はい!ありがとうございます」
額にうっすら汗を浮かべてにこやかな笑顔を向ける長太郎。
ピアノを弾くというのは、意外にも体力を消耗する行動だ。
ふと時計に目をやれば、既に夜の9時過ぎ。
どうも長太郎とのレッスンは、時間が過ぎるのが早い。
「…やば、もうこんな時間…ごめん長太郎、ずっと弾きっぱなしで疲れたっしょ?」
「え?もうそんな時間ですか?すいません、俺今日注意される所いっぱいあったから、引き止めてしまって…」
「違うって、あたしが細かく注文付けちゃうから。それに長太郎、ここの所テニスが忙しかったみたいだからしょうがないよ。少し、腕なまってたし」
「……………………はい」
―じゃ、今日はここまでにしようか。
そう言い掛けたと同時にコンコン、と軽いノックの音がして、答えるより先にドアが開く。
キイ、という軽い音と共に防音室の扉から現れたのは、上品な部屋着に身を包んだ長太郎のお母さん。
「―お邪魔じゃないかしら?2人ともそろそろ休憩なさったらどうかしら?」
「あ、いえ遅くまですいません、今帰ろうと思ってたので…」
慌てて教本をかばんに詰め込もうとしたあたしに、先回りするように長太郎のお母さんは口を開く。
「あら、そんな事言わないで。今日は長太郎以外皆いないのよ。お父さんも事務所に泊まるって言ってたし、娘達も週末は色々忙しくてね。息子と2人だけの食卓ってのも味気ないから、嫌じゃなければ泊まっていかれない?」
「へ!?」
「こんな時間に女の子一人帰らすのは、親御さんに申し訳ないし…うちは部屋だけなら沢山あるから、遠慮しないで。ね?」
「え、いや、でも、その」
「どうかしら?それとも明日、何か予定がおあり?」
「え、いえ、そんな事は…」
「じゃあ是非泊まっていらして!私、以前から先生と色々お話してみたかったのよ」
「へ、え、あ、う」
「ね!じゃ、下で食事の用意してるわ」
にっこり笑顔を浮かべて、嵐のようにぱたぱた去っていったおば様を、止める手立てはなく。
呆然と、鞄を半分背負った状態で立ちすくんだあたしに長太郎がくすくす笑いながら声をかける。
「すいません、うちの母、大人しそうに見えて一度言い出したらきかないんですよ。変に止めに入ると、俺が攻撃されるので」
「そこは止めに入ろうよ!てかこーゆー時は、『母さん、そんな事言ったら困るだろ』とか言うのが長太郎の役割じゃないの!?」
「あはは、すみません。でも、正直俺も先生と食事したかったんですよ」
「いやいや『あはは』とか爽やかに笑えば済むとか思うなよ!!」
「いいじゃないですか。俺だって、こんな夜更けに先生一人帰らしたくないですから」
……………にっこり笑っていう長太郎が、どこかおば様の笑顔と重なったのは気のせいじゃないと思います。
◆ ◆ ◆
まさしく『団欒』とういう名が相応しい食事を終え、軽いシャワーを浴びて、割り振られた部屋に入る。
来客用の新品だと思われるシルクのパジャマがすべすべと肌に心地よい。
本当に上流家庭だな、とぽすん、と弾力のきいたベッドに横になる。
――――――――――――――――――♪………♪♪…………♯……
…………音?
微かに聞こえてきた旋律に一度閉じた瞳を開き、もう一度閉じて意識を耳に集中する。
――――――――――――――――――♪♪♪…………♭♪……………♪♪♪
……やっぱりピアノだ。
途切れ途切れながらも聞こえてくる耳覚えのある音律は、確か夕方長太郎に教えたばかりの曲。
ほんの数時間前に教えたばかりの曲を、もう完璧に弾きこなしていることに驚きを覚えつつ、ちらりと携帯のディスプレイを見る。
……0時半か……。
夕方からほぼ休憩なしで弾き続けたのに、今からまた練習する気なのだろうか。
指だけでなく腕もも疲れているだろうし、練習のしすぎで腱鞘炎になってしまうというのはプロの世界では良くある話だ。
ましてや長太郎は日頃からテニスで腕を酷使している身。
……ちょっと様子見に行くか。
先ほど閉めたばかりのドアを開あけて廊下に出ると、少しひやりとした空気が体を包む。
薄暗い廊下の中、足元の間接照明を頼りに脚を進めて目的地の扉を探す。
「―防音室防音室…っと…ここ、か」
先ほどまで聞こえていた細いピアノの音が聞こえなくなった事に疑問を覚えながら、控えめにドアをノックする。
「…長太郎?」
もう休んでいるであろう、2階のおばさんを起こさない様に小さな声で呼びかける。
予想通り、分厚い防音処理がほどこされたドア越しには中からの気配は伝わってこない。
「………長太郎?」
先ほどより、幾分か大きい声で呼ぶが、やはり声は返ってこない。
防音室の構造上、中の音は聞こえなくても外からの音は聞こえるはずだ。
何かあったのか、と知らず焦りから大きくなる声を抑えられず、もう一度大きな声を出す。
「…………長太郎、ってば!」
これで返事がなかったらおば様起こしに行こう、と決意した瞬間、勢いよく扉が開き伸びて来た腕に抱きよせらるように身体ごと引きずり込まれる。
「―ッ!!」
いささか乱暴な手つきで連れ込まれた防音室内は、なぜか明かりもついていない真っ暗闇。
混乱して大声を出そうとすれば、手のひらで口を覆われる。
「―ッん!
くぐもった悲鳴が、廊下に響き渡るより早く、ガチャ、というドアの閉まる音が響き、室内に沈黙が満ちる。
背後から抱え込むようにして口元を押さえてくる人物を振り返ろうとした瞬間、乱暴に床に放り投げられる。
「―廊下で大声上げないでくださいよ。防音、部屋にしかきいてないんですから」
聞き覚えのある声の主が発した言葉の後、パチ、という軽い音と共にオレンジ色の間接照明が、ぼんやりと灯る。
薄暗い室内に、浮かび上がる長身の影。
胸元に鈍く光る、クロスのチョーカー。
ぺたりと床に座り込んだまま、呆然と見上げるあたしにやれやれ、といった風に長太郎は呟く。
「―こんばんは、先生?」
「………は?」
力の入らない下肢を床に投げ出したまま、呆けた声をあげるあたしを長太郎はク、と皮肉な笑みで見下ろす。
「こんな夜中に男の部屋に来るなんて、危機感ないんじゃないですか?」
「え」
「ま、危機感あったら初めからこんな所に来るわけないか」
―少しは警戒心もった方がいいですよ―と、どこか小馬鹿にしたように言う長太郎がいつもと全く別人に見えて、悪い夢でも見てる気分になる。
未だ状況を理解しきれず混乱するあたしを彼はいつものにこりと笑顔で見やる。
常に絶やさない穏やかなはずの笑みが、今はひどく恐ろしいものに感じて背筋に冷たい汗が走る。
「………………ちょ、たろ??」
「はい?」
「長太郎………?」
「はい」
何度も何度も名前を呼ぶあたしに返事しながら、クツクツと面白いものを見るかのような笑みを長太郎がこぼす。
………………………これは、だれ?
「大丈夫ですか?なんだかもの凄く馬鹿みたいな顔してますけど」
「え、いや、え、」
「ああ、馬鹿みたいっていうより馬鹿ですよね。ピアノの音につられてノコノコやってくるんだから」
「え」
闇に同化している黒いピアノにゆったりと寄っかかって、あたしを見下ろしながら言う長太郎に「つられてって?」と問うと艶然と彼は微笑む。
「あなたの事だから、大方指でも痛めると思って忠告しに来たんでしょう?余り長い時間弾いてると、指に負担がかかるから、と」
「………………そ、うだけど…」
ホント、面白いくらい簡単に引っかかってくれますよね。こんな単純な罠、まさか来るとは思わなかったのに」
「…・・・・・・・・・・・・罠?」
まだ気づいてないんですか、と言いたげに細められた瞳の奥、暗く揺れる冷たい光が見えてさわりと肌が薄く粟立つ。
頭の中、わずかに残っていた理性と本能が警告を告げる。
危険。
「ちょっと考えれば分かると思うんですけど。いくら夜中で静かとは言え、ピアノの音が聞こえた時点で疑問をもつべきですよ」
「………音?」
「ええ。いつも練習してるから知ってますよね?ここがなんの為の部屋なのか」
「………………………なんの為?」
「ここ、防音室ですよ?」
「ちょっと窓開けて弾いてたんですよ。ココの」
言葉に合わせて、コンコン、と、防音室の壁に切りとられたように取り付けられている窓を長太郎は叩く。
ぼんやりと外の闇を映し出すそれは、今はきっちりと鍵をかけられていて。
「……………それ、って」
「そう。あなたなら来ると思ったんですよ。わざわざ俺の指を心配しに」
―ホント、ここまで単純だといっそ馬鹿らしくなってきますよ―と続けた長太郎に、「……なんで私をここに呼びたかったわけ?」と問うが、答えずに彼は話をすすめる。
「それからもうひとつ。あなた夕方俺に言いましたよね。『テニスで忙しかったんだから、腕、なまってる』って」
「…………」
「俺のさっきの曲が聞こえてたならわかってると思いますけど、なまってなんかないですよ。むしろ逆」
「今日の曲だって、わざとミスするのが大変で大変で」
わざとらしくピアノにたてかけてあった教本をめくり、無造作に床に投げ捨てる。
バサリ。
冊子が立てた乾いた音に嫌な予感がますます煽られるのに、震える身体はいう事をきいてくれない。
「………・…わざとミス?」
「ええ。あんな簡単な曲、俺がミスするわけないじゃないですか」
「………なんでそんな事したわけ?」
先ほどと同じ質問を舌にのせれば、にっこりと向けられる、闇に浮かぶ黒い笑顔。
「―だって、俺が下手なら先生はその分指導に熱中するでしょう?――帰る時間も忘れるくらいに」
「ッ!」
ぞくり。
嫌な予感が確信に変わり、弾かれたように素早く立ち上がりドアに向かう。
けれどドアノブに伸ばした手が届く事はなく、代わりに背後から勢いよく引張られ再び床に引き倒される。
抵抗する間もなく覆いかぶさってきた長太郎にたやすく両腕を固定され、もう片方の腕で顎を捉えられる。
「―や、ちょ、やだ長太郎!!」
「叫んでも無駄ですよ。防音きいてるって何度言わせるんですか」
「や、いや、やめて……っ!やあっ!!」
合わさったパジャマの胸元、肌蹴た部分に顔をうずめられちりり、と甘い痛みと戦慄が走る。
練習中の単純なミスも。
闇にまぎれて届いた、完璧なメロディも。
全てが、罠。
ゆるゆると脱力してしまったあたしの耳元で、長太郎は低く囁く。
その声音はどこまでも、恐ろしい程に甘くて。
「いい音聞かせて下さいね『センセイ』?」
黒鍵のような、甘い響き